ショパンのパリ、椿姫のパリ~エピローグショパンとマリ・デュプレシは出会っていたのでしょうか?答えは「イエス」であり、「ノー」であるとも言えます。 この時代の、フランスは勿論、全ヨーロッパに措けるやっかいな「階級」という身分制度は、彼ら公式には決して知り合わせてはくれないのです。 方やショパンはフォーブル・サンジェルマンに住居を構える大革命以前からの貴族や、ショセ・ダンタンの有力なブルジョア達の形成する社交界「LE MOND(社交界)」に所属する芸術家、もう一方のマリは同じく貴族や、ブルジョア達が出入りするとはいえ、定かならぬ「色恋」の従事者で形成される「DEMI MOND(裏社交界)」の娼婦なのです。 この二つの世界は交差することはあれ、重なることはありません。一時代前であればその居城から一歩もでない大貴族達はブルジョアという新しい階級の台頭で、その社交場としての、オペラ劇場、コンサートホールで彼らや、「女性達」と肩を並べるようになりますが、認識はされても認知されない存在だったのです。 彼らは自分の身分や名誉を傷つけない様、ひっそりと劇場やカフェや彼女らのサロンで遭いました。 マリは他の高級娼婦では及びも尽かない公的なレセプションに呼ばれたりする、その中でも稀少な存在でしたが、地位もなく低い身分であることは変りません。 お互いに「知って」いても、知り合いになることが難しい彼らは、劇場で、流行のカフェで、チュイルリー公園の散歩(上流階級の言わば「顔見世」の場。最新のモードで練り歩き、沢山の見物人で賑わいました)ですれ違い、一緒にいる友人や連れと二言三言風評が口の端に乗ったかもしれませんが、特に道徳的に固いショパンが、よしんば誰かが紹介してやろうと言っても拒否したに違いないのです(それだけに彼にとってサンドとあのような形で暮すということが、どれだけ決心が必要だったか、別離があれだけ打撃になりえるのか、お判りになると思います)。 しかし、彼らには共通する部分が幾つかあるのです。 第一は、貴族、ブルジョワ達に「庇護」されていたということです。 この一見全く違う存在の彼らは、「支援者、出資者」である貴族、ブルジョア達に取り囲まれ、彼らの心の慰め、サロンの飾りになっていたという点では変りません。 実際パリが他の都市、ウイーンやローマを差し置いて「芸術の都」と呼ばれ、多くの優れた音楽家、芸術家を集めえたのは、銀行家を中心とするブルジョアが持っている豊富な資金です。彼らは「音楽」を、投資対象として、または新興勢力である自分達の箔付けの為に使い、その為商業としての音楽も発達します。「女性達」も同様です。 第二は、彼らは共に「異邦人」であったいうことです。 その「魅力」でヨーロッパの各都市から、フランス全土から大勢の人間を呼び寄せ、飲み込んでいったパリは、多くの「異邦人達」の坩堝でもありました。 一口にパリといっても今とは違い、カフェや劇場や、トップモードの店がひしめき合っているのは極一部でしかありませんでした。 オスマンによる改造前のパリは、主要なブルヴァール(大通り)以外は、暗く古い建物が入り組み、狭い路地は汚物まみれで、疫病が発生したらひとたまりも無いほどの衛生状態であり、百万の人口に対し、美しい「大通り」を闊歩できる階級の人々は六千人に満たなかったと言われています。 そのパリに憧れ、成功を夢見て足を踏み入れ、野心を燃やしあるいは挫折していく姿は、バルザックやユゴーの小説に克明に描かれています。 その「異邦人」たちの頂点がショパンであり、マリであるのです。そして二人とも、心で故郷を求め、懐かしんでも終には戻ることなく、彼の地に葬られたのでした。 そして第三に孤独であったこと。 家族から離れ、または家族を失い、ショパンは同郷の女性との結婚、家庭を夢みて果たせず、サンドとの暮しも、彼が思う程には結局満たしてはくれなかったのです。 「・・結局彼女(サンド)は、僕を判ってくれませんでした・・」と後年ショパンは親しい友人への手紙に書いています。 同じくマリも、死の1年前、訪ねた女優に「私は心から愛しました。でも誰も私の愛に応えてはくれませんでした・・」と胸の内を吐露しています。 同じ時代に生まれ共にパリを愛し、パリに捕らえられ、異邦人として葬られた、出身も年齢も異なる二人の人物の、最後の交差地点が同じペール・ラシェ―ズ墓地であるとは、何と不思議な偶然でありましょうか。 ~FIN~ 参考資料:「ショパンのパリ」河合貞子著、「よみがえる椿姫」ミシュリーヌ・ブーデ著、「ショパンの手紙」アーサー・ヘドレー編、「19世紀フランス光と闇の空間」小倉孝誠著 関連図書:「ゴリオ爺さん」オノレ・バルザック著、「ベラミ」モーパッサン著、「ナナ」エミール・ゾラ著、「明日は舞踏会」「馬車が買いたい!」鹿島茂著 ジャンル別一覧
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